当山は、成務天皇四十八年(一七八年)、雷山の地主神である雷大権現の招きで渡来して、天竺霊鷲山の僧、清賀上人の開創と伝えられております。その後聖武天皇によって勅願道場となり、七堂伽藍が建立されました。歴代天皇をはじめ、天下の武将・豪族が競って尊崇し、鎌倉幕府を始め、諸大名が祈願文を捧げ、斉田を寄進し、一山三百坊に及びました。特に、宝暦三年(一七五三)には福岡藩主、黒田継高公が現在の寺である大悲王院を建立しました。幽遠の歴史を秘めた雷山千如寺の法灯は、今は大悲王院によって伝えられています。
現在当山は「安産」、「子育て」、「開運厄除」等の祈願所として、また身代わりの御守り「サムハラ」のお授け所として大衆の信仰を集めています。
雷山略史
(九州大学工学部助手 山本輝雄氏)
「雷山千如寺縁起」には、風伯雨師の雷電神が一夜のうちに山を削り岩を砕き、大伽藍を造顕したという「雷音寺」の草創をつたえる。次に、神功皇后が渡海遠征にあたって、雷山の主神「水火雷電神」へ伏敵祈願したことが語られ、当社が異賊降伏に霊験あらたかなることをつげる。そして、法持聖清賀という僧が怡土七ヶ寺の第一の「霊鷲寺」を建立したことや雷山の雨請いの霊験が語られる。
雷山は曽増岐山といわれ、曽増岐神社の上宮、中宮、下宮があり、中宮は雷神社ともいい、下宮は笠折権現とも呼ばれた。いずれも水火雷電神をまつり、古来から雨請いの祈祷が盛んに行なわれたところである。その神宮寺は聖武天皇の勅願をつたえ、清賀上人が開山となって建立した寺であり、のちに「千如寺」と呼ばれた。開山清賀上人は建長七年(一二五五)などの当寺文書に「法持聖人」「法持聖清賀」の名であらわれる。清賀上人建立の怡土七ヶ寺は雷山千如寺のほかには染井山 霊鷲寺、一貴山夷巍寺、小倉山小蔵寺、鉢伏山金剛寺(浮岳)久安寺、種寶山楠田寺をいい、怡土・志摩両郡に配されていた。これらの上代寺院建立は、確かな記録も発掘された遺物遺構もなく、にわかに信じがたいが、同じころと思われる雷山中腹の神護石遺跡(図3・4)の土木技術と、それを成就させた支配力と経済力を考えると、これらの初期寺院の存在に説得力をおびる。
雷音寺と霊鷲寺の関係や、「千如寺」と呼ばれるようになった時期についてはわからないが、「雷山古図」が描き出そうとする雷山三百坊の繁栄は、平安時代の満山繁栄のありさまであろう。今にのこる木造薬師如来立像や同坐像、木造不動明王立像などの平安古像に、往時の雷山仏教文化の華麗な繁栄が偲ばれる。
千如寺大悲王院の建築
(九州大学工学部助手 山本輝雄氏)
当寺には、「雷山古図」一幅が保存されている。当図に描かれた情景が、何時頃を示し、かつ史実と合うのかどうかを検討するには、今後研究の蓄積が必要である。が、宝暦三年(一七五三)再建の上宮三石祠等が描き込まれていないため、宝暦三年以前の景観であることは明白である。さらに、図中顕著な建物である五重塔や多宝塔について、現在地元に明確な伝えが何も残っていないことから、江戸時代中期からなお遡ることが推察される。当図は、地勢は言うに及ばず、遺址等も適確に描き込まれており、雷山北麓にかつて展開した宗教的空間の繁栄をよく知ることができる。
そして、時移った今日では、雷山山中の寺院は当千如寺大悲王院のみとなってしまった。こうした経過の故にこそ、当寺は、「雷山三百坊」と言われた雷山における宗教上の英耀を語る際の、象徴的存在なのである。
当大悲王院の現在地での開創は、宝暦三年(一七五三)である。「筑前國續風土記拾遺」に、次のようにある。
「大悲王院當寺は切崇公(注=福岡藩主黒田継高公)開基し給へり。宝暦三年より造寺のお伺し立有て、新に山谷を開いて此寺を剏立し給り、仲坊の先住なりし實相此丘を請して、開祖となし給り、(中略)金剛坊と号す。叉千如寺と称す。本堂、書院、方丈、庫裡等備りて、(中略)。安永年中(注=一七七二~八一)、号を改めて大悲王院と称す。
右文中の寺号の”千如寺”については、当金剛坊開創の宝暦三年以前より存在する寺号である。確かに今日当寺本堂正面に掲げる大額には「千如寺」と刻まれるが、この寺号を書したのは、山門に掲げる大額「雷山」と同じく前原町香力所在の興福寺住職であった覺龍であって、彼は既に享保十九年(一七三四)には寂している。推察するに、現大悲王院開創の宝暦三年頃、雷山における寺社の中心は、現在の雷神社のあたり(かつての中宮と仲ノ坊のあった所)であたので、享保年間頃に現存の「千如寺」「雷山」の大額が作成されたとすると、それらは中宮か仲ノ坊の中心的な社か堂に掲げられたものと思う。
今日、境内にはビャクシン2本・楓3本の古木等があって、四季折々の自然豊かな環境に包まれている。建物は、山門・庫裡・玄関・書院・客殿・茶室等がある。書院と客殿の前後には、枯山水庭園と清水を湛える心字池をもつ庭園が、好対照をなして広がっている。
江戸時代にまで遡る建物は、本堂、聖天堂や庫裡である。
本堂は、「筑前國續風土記附録」図中の「大悲王院」の「観音堂」の後身であって、現本堂外形は相似している。当図中の「観音堂」は安政四年(一八五七)に焼失した。が、再建に着手して、同六年(一八五九)八月に完成し、同年九月二日に入仏供養式を行った本堂が、現本堂である。昭和三十三年(一九五八)はじめ、後世の改修がある。
よく保存されているのは、聖天堂である。当堂は、寺地の東南隅に北面し、正面三間・側面四間・入母屋造・妻入・向拝一間・向唐破風造・鉄板葺であり、小形であるが、軒下に本格的な二手先組物を使ってあったりする良好な作品である。当院の鎮守として、安政元年(一八五四)二月に落成供養した歓喜天堂と考えられる。明治二年(一八六九)の文書には、当堂は「小板葺」とある。
しかし、何んと言っても、多くの参詣者を惹き付けて離さないのは、観音堂である。幾度か石段を上って遂に至る、この観音堂は、幾分後の付加部分もあるが、当初は方五間であって、四周には高欄付きの回縁を巡らした平面であり、宝形造・桟瓦葺の壮大な一字である。丈六の観音像安置の当堂は、従来より疑問のある建物である。
今回の屋根裏の調査で新しい知見があった。まず、中心の束にある筆による墨書銘は、次のようにある。
「大塔上屋根造築 棟梁山崎菊松・井手清三郎
明治拾三年五月拾六日 上棟式也
住職大西明道」
当堂は「大塔」と名付けられている。従来から言われる移築については、当寺の文書に、 「明治三年(一八七〇)十月講堂ヲ始メ(中略)悉皆本院ニ引移ス。
凡ソ廣大ノ堂塔ヲ解ケ除ケ大造ノ佛像ヲ本院ニ引移シ合併安置スル」
とあるが、実際、観音像安置の背面のニ柱とこれに挿し込まれた貫材等は桧の古い良材であって、古材の再用を認め得る。
ここで言う「講堂」とは、明治二年(一八六九)文書では、「千如寺講堂 五間半ニ五間 上屋根茅葺二重屋根板葺」とある建物であり、前掲書「筑前國續風土記附録」図中の「中宮」横に描かれる広大な「観音堂(方五間)」を指している。この「講堂」は、丈六の観音像を祀って雷山全山の中心堂宇として、連綿として続いてきたらしく「、千手千眼観音堂 中宮の前提に在。一山の講堂也」(「筑前國續風土記拾遺」)と記し、「筑前國續風土記」でも「観音堂 本社の前、左の方にあり」と所在が確認できる。さらに遡っては、先記年代不詳の「雷山古図」にさえ、現在の雷神社の位置に、広大な二層の堂が見え、これが「講堂」に当たる建物であろう。
全山の中心堂宇である講堂の遺構としては、近くでは、かつて英彦山全山の講堂であった元和二年(一六一六)上棟の英彦山神社(福岡県田川郡添田町所在)奉幣殿がある。
こうした雷山全山の講堂も、今や解かれ、少し降った地にある大悲王院へと移ったのである。跡地には、今日巨大な日本の杉が”観音杉”と名付けられて聳え立ち、さらに今後の時世の推移を見守っているかのようである。
そして、観音像安置の新しい堂は、「大塔」として計画された。方五間の正方形。各辺中央に開口部があって、外部は正しく塔の平面と相似ている。が、内部は、円柱で囲まれる正方形の内陣が一段と天井と床ともに高く、四周は天井と床が低い外陣となり、内陣後方中央に丈六の観音像安置所として前面に巨大な桟唐戸(明治十九年=一八八六寄進の刻銘あり)を設け、左右に持国多聞の巨像が須弥壇上に置かれ、これら仏龕の両側と背面に孔雀文貼り付けの和様須弥壇を構えて、ここに二十八部衆の像は安置される。
現観音堂は、「大塔」の語から想起されるような多宝塔や他の形態の塔の立面をしていない。が、屋根裏には確かに台輪材が八角形に巡っている。ただし、この台輪が使用された痕跡はない。故に、当初の塔状の建物の計画は放棄されたとも考えられる。
「大塔」とは、真言宗開祖空海が高野山金剛峰寺において一山の中心として計画した毘盧遮那法界体性塔の実現した塔とされている。当時においては、明治初年という困難な時代に、信仰の中心として企画された「大塔」は、必ずしも所謂多宝塔という日本密教独自の形態に捉われなかったのだろう。
同様の例として、同じく福岡県にある真言宗の豊前国分寺(京都郡豊津町国分所在)三重塔も、長年月をかけて明治二十九年(一八九六)竣工に漕ぎ着けた、宝塔にともなう相輪をもった「明治紀年大宝塔」であり、大工棟梁を「大塔棟梁緒方義高」と呼んでいる。
当観音堂が明治十三年(一八八〇)上棟式を行なった雷山全山の中心堂宇であって、このことは「大塔」の語に表明されている。
そして、この精神は、日常的苦悩から救われんとして訪れる多くの人々にとっての、信仰の拠り所となって、今日も立派に生き続けているのである。