「住職のことば」

 福岡、佐賀両県にまたがる背振山系の標高九五五・四五メートルの雷山の中腹に位置する千如寺は、寺伝によれば仏教公伝前の成務天皇四十八年(一四八)にインドの僧、清賀上人によって開創され、本尊の十一面千手千眼観世音菩薩(高さ四・六三メートル・重要文化財)も同上人が一刀三礼して謹刻したと伝えられています。
 鎌倉時代には北に玄界灘を臨む位置にあるため、元寇に対する最前線の祈祷寺院として幕府より期待が寄せられていたことが、当院に残されている『大悲王院文書』(福岡県指定文化財)によって窺い知ることができます。最盛期に三百の僧坊があったと伝えられており、当院に伝わる『雷山古図』には多数の僧坊が描かれております。千如寺はこの僧坊の総称であり、また中宮(現雷神社)横にあった仲之坊を指し、十一面千手千眼観世音菩薩も一山の本尊として同地にあった講堂に安置されていました。
 その後室町から戦国の長い戦乱の中で僧坊は荒廃し、仲之坊を残すのみとなりましたが、宝暦三年(一七五三)福岡藩主の黒田継高公によって大悲王院が創建されました。県の天然記念物に指定されている大楓も創建の記念に黒田公が植樹したと伝えられています。
 また 雷山は水火雷電神、すなわち雷神を祀る中宮の他、上宮、下宮がありその三宮を司っていたのが千如寺であり、江戸時代までは神仏習合の山でありました。しかし、明治維新の神仏分離令により中宮にあった仲之坊は廃寺(最後の住職は神官となっています)となり、本尊を始め全ての仏像、古文書等は大悲王院に移されました。今千如寺の法灯は大悲王院によって守り伝えられています。

 ここに歴史の一端を紹介いたしましたが、決して当院の歴史は平坦ではありません。神仏の加護と歴代住職の努力、そして多くの人々の祈りと浄財によって法灯が守られてまいりました。ホームぺージに紹介する多くの寺宝も受難の時代の中にあっても、必死な思いで先徳が守り伝えてきたものであります。
 当院は古くから觀音霊場として、広域の信仰を集めてまいりました。今後も平和で安泰な日々を祈る信仰の道場、祈りの道場としての尊厳を守り、多くの方々がご本尊の加護を受けられ、「心の安らぎ」を得られる事を念じております。
また当院の歴史と寺宝(文化財)を通じて、当地の文化や歴史を多くの方々に知ってもらうとともに、雷山の仏教文化を後世に伝えるべく、伽藍の整備と宝物の修復等の努力を続けていく所存です。このホームぺージをご覧になられてその一端がご理解いただければ有り難く存じます。
 最後にお願いですが、当院にご参詣いただくことが原則ですので、信仰上のお尋ね、ご相談等は一切メールでは、お受け出来ませんので、その旨はご了解下さい。また写真、文章、その他全ての内容の無断転載を固く禁じます。転載される場合は必ず当院の許可を受けて下さい。

                         住職  喜多村龍介記