重要文化財
■ 像高:463.6cm
■ 鎌倉時代(十四世紀) |
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大悲王院の本尊である。像高がほぼ一丈六尺(=四.八五メートル)あることから丈六の千手観音像とも呼ばれている。千手観音像は通常千手を略して四十八臂とする場合が多いが、本像は合掌手と宝鉢を載せる禅定手および脇手左右各十九臂、その他舟形の板光背に小脇手八四五手(現状)を貼りつけている。したがって本像は実際に千の手をもつ像として造像されていることがわかる。
材質はカヤ材で彫眼とし、構造は頭体別材で頭部は耳後で前後二材を矧ぎ寄せている。体部は概ね前面を足?を含む一材から彫出し、背面を腰上部分で上下二段として各々数材を矧ぎ寄せている。昭和三十一年に解体修理が行われ、その際後頭部内に懸仏を転用したと思われる銅製十一面観音坐像と胎内背面に「開眼供養」の墨書、並びに杖を肩に掛けて大袋を提げた布袋像の戯画が発見された。
像容は巨像に相応しく真っ直ぐに直立し、折り返した裳の衣文がほぼ左右対称となるなど全体に形式を重視した重厚な表現が目立つ。着色をほとんど施さない素地仕上げは壇像風であり、面部はやや面長ながら目鼻立ちがはっきりしたシャープな彫りをみせる。
本像の制作年代については胎内銘など直接造像に関する資料がなく諸説あるが、衣文表現が重く形式化しながらも面貌にはなお明確さと緊張感を残すことから、大よそ鎌倉時代後期のものと考えられる。本像はもと大悲王院よりさらに上の雷山中宮(現雷神社)の位置にあったが、明治の神仏分離を機に現観音堂とともに現在の場所に移された。 |
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