雷山略史
雷山の寺社もまた、創建や古代の歩みを語る確かな史料にとぼしい。
 「雷山千如寺縁起」には、風伯雨師の雷電神が一夜のうちに山を削り岩を砕き、大伽藍を造顕したという「雷音寺」の草創をつたえる。次に、神功皇后が渡海遠征にあたって、雷山の主神「水火雷電神」へ伏敵祈願したことが語られ、当社が異賊降伏に霊験あらたかなることをつげる。そして、法持聖清賀という僧が怡土七ヶ寺の第一の「霊鷲寺」を建立したことや雷山の雨請いの霊験が語られる。
 雷山は曽増岐山といわれ、曽増岐神社の上宮、中宮、下宮があり、中宮は雷神社ともいい、下宮は笠折権現とも呼ばれた。いずれも水火雷電神をまつり、古来から雨請いの祈祷が盛んに行なわれたところである。その神宮寺は聖武天皇の勅願をつたえ、清賀上人が開山となって建立した寺であり、のちに「千如寺」と呼ばれた。開山清賀上人は建長七年(一二五五)などの当寺文書に「法持聖人」「法持聖清賀」の名であらわれる。清賀上人建立の怡土七ヶ寺は雷山千如寺のほかには染井山 霊鷲寺、一貴山夷巍寺、小倉山小蔵寺、鉢伏山金剛寺(浮岳)久安寺、種寶山楠田寺をいい、怡土・志摩両郡に配されていた。これらの上代寺院建立は、確かな記録も発掘された遺物遺構もなく、にわかに信じがたいが、同じころと思われる雷山中腹の神護石遺跡(図3・4)の土木技術と、それを成就させた支配力と経済力を考えると、これらの初期寺院の存在に説得力をおびる。
 雷音寺と霊鷲寺の関係や、「千如寺」と呼ばれるようになった時期についてはわからないが、「雷山古図」が描き出そうとする雷山三百坊の繁栄は、平安時代の満山繁栄のありさまであろう。今にのこる木造薬師如来立像や同坐像、木造不動明王立像などの平安古像に、往時の雷山仏教文化の華麗な繁栄が偲ばれる。

クリックすると拡大します